建築学科・建築学専攻の校舎となる「甲子園会館」は、昭和5年(1930年)に「甲子園ホテル」として竣工しました。このホテルは、フランク・ロイド・ライトをアメリカより招聘して帝国ホテルを設計させた帝国ホテルの元支配人、林 愛作の企画と、フランク・ロイド・ライトの愛弟子 遠藤 新の設計によるものです。
明治以降、日本は洋風建築を競って建て、文化国家であることを世界に認めさせようとしました。しかしアメリカの建築家ライトは日本の伝統文化を深く理解し、日本らしい近代建築の確立を目指して愛弟子遠藤 新を助手に帝国ホテルを設計しました。その7年後に、「甲子園会館」は遠藤の設計によって完成され、ライトも高く評価した優れた建物です。ライトの意匠を継承する独創的な名建築です。
甲子園ホテルは、当初甲子園球場付近に建設される予定でしたが、林と遠藤は、武庫川と国道2号線に囲まれてやや小高い現在の敷地に変更しました。屋根には京都の泰山製陶所が焼いた薄緑の瓦や棟飾り、大谷石に良く似ているが風化に強い石川県小松市の日華石と鉄粉を混入して焼いたボーダータイルで覆われた内外壁、市松格子の障子をあしらったホールの光天井、この建物のシンボルとなった打出の小槌の装飾など、洋風の中に巧みに日本的表現が取り入れられています。
林は竣工後、帝国ホテルの協働者とともにこの甲子園ホテルに移り、支配人となりました。高松宮殿下をはじめ、徳富蘇峰や山本五十六元帥などもたびたび訪れ、また結婚式場としても賑わいました。球聖ベーブ・ルースが宿泊したこともあります。建物の北東にあったテニスコートではウインブルドン準優勝者の清水選手がテニスを教えていました。甲子園ホテルに宿泊し、阪神競馬場(現在の武庫川女子大学附属中学・高等学校「芸術館」)で競馬を観戦することは当時の最高級の週末ライフでした。
しかし第二次世界大戦中の1944年、海軍病院として接収されたため、ホテルとして使用されたのはわずか14年間でした。1945年の終戦後は、アメリカ進駐軍に接収され、将校の宿舎とクラブとなりました。1957年の進駐軍引き上げ後は国有財産となり大蔵省の管理下に置かれましたが半ば放置され、荒れ果てていました。
名建築の芸術性が教育に及ぼす効果を見抜いていた本学院の校祖 公江喜市郎先生は、国に対して熱心な払い下げ運動を行いました。その熱意が実って、1965年、武庫川学院が払い下げを受けました。その後周辺敷地の買収を進めて上甲子園キャンパスとするとともに、2度にわたる大規模な改修によりかつての高級ホテルは甲子園会館としてよみがえりました。1990年、市民に対する生涯学習の場としてのオープンカレッジと、生活美学研究所が設置されています。
|